あなたといたい

 天気が悪いから活動向きの日ではなかった。だから部屋に引きこもるのは悪い選択肢ではないはずだった。
 窓の向こうに見えるのは灰色の空だけだった。テレビがない部屋に満ちているのはざあざあという轟音だけ。たまに地鳴りめいた雷の音も聞こえるが。
 薄暗い部屋で同じ音を耳にしていると、どうも時間や身体の感覚が鈍くなる。自分がベッドに横たわっていることすら忘れてしまいそうなほどだ。
 普段より思考が重く沈むような感覚があった。忙しさを理由に逃げていた、もとい保留していたことが脳裏に浮かび上がってくる。
 スマートフォンを手に取ってカメラロールを遡った。ボードゲームの仲間たち、試作したデザート、千早と出かけたカフェ、そして彼女が撮ってくれた自分の写真。どれを見返しても脳裏にそのときの状況がありありと目に浮かんだ。
 以前の自分にとっては容量の無駄でしかなかったデジタルデータだった。かつてのたきなであればさっさと削除しただろうし、そもそも撮ろうと思わなかっただろう。
 そんな余計なものが今は愛おしい。これが「思い出」になってしまうことを考えるとなおのこと。
 かけがえのない時間を一緒に過ごしたあの人のことを忘れたくない。明るく高い声も、どこか甘い匂いも、優しい目差しも、しなやかな髪の感触や、肌の細やかさも。
(だけど……)
 DAに所属するリコリスの行き先に安らぎはない。どうせ生まれたときから死んでいるような存在なのだ、正義のために役立つことができて十数年も生きられるなんて儲けものだ。彼女と出会うまではそう思っていた。
 瞼に浮かぶ幼少の頃の光景はモノクロだった。それがある日を境に鮮やかに色を持つようになった。
 目を背けたくなるような失敗や、身を焼くような怒りの記憶はあるが、それらも今の自分を構成するものの一つだ。忘れたいだなんて思わないが、昔のことを思い出すと悲しいような虚しいような不思議な感覚に襲われる。
 たきなは自分を優秀なリコリスだと認識していた。自分が築いてきた確固たる足場を崩されるのはつまり自分の核を壊されることで、昔の自分には耐えられなかっただろう。でも彼女と知り合い、彼女の価値観に触れ、自分も変わっていくことに不快感はなかった。
(あなたには生きてほしいし、わたしも生きたい)
 自他の命を軽んじていた、ほんの一年前の自分がこの言葉を聞いたらどう思うだろうか。千束と出会う前のたきなにも喜怒哀楽はあって、仲間が死んだら悲しんだ。でもそれは不可抗力の天災のようなものだと捉えていた。たきながいくら尽くしたところで天気や地形は変えることができない。だから雨に流されるのを待つように心の傷が塞がるのを望んでいた。
 でも今は違う。もっと積極的な感情が燃えていた。失ってから癒えるのを待つのではなく、今自分に何ができるのかを考えていた。面白みのない自分に思いつくことなど高が知れているが。
 スマートフォンの消灯ボタンを押すと、真っ黒な画面にそれよりも暗い自分の影が映った。ぼさぼさの髪の毛はみっともなくあちこちに跳ねている。
(千束に怒られる……)
 疲労もしていないのに瞼が重くなり、そのまま目を閉じた。

 目を開くとたきなを千束が見下ろしていた。天井から降り注ぐ昼光色が目に染みる。かつては人を殺めていた手、今は人を救うための手がたきなの頬を撫でていた。
「千束……」
 酸欠気味だった脳に情報が駆け巡るが、言葉になったのは思考のごく一部だった。意識を失っていた時間はどのくらいだったか分からない。彼女がいつからどのくらいここにいたのかも一切予想できない。
「おはよう~! 随分お休みだったねえ! 疲れてた?」
「どうして……、」
「わたしからの電話は『3コール以内』に出てください! 出ない場合は『次のワン切り』で『すぐに向かう通知』とします! なんちゃって。わたしがたきなの心配してもいいでしょ。家の鍵は……その、ごめん……だけど」
「あなたの侵入を許した私の落ち度です。心配してくれてありがとうございます」
 千束に支えられながら、たきなは上半身を起こした。視点の高さが同じくらいになる。目線がぶつかると、殺風景な部屋には不似合いな明るさで千束は笑った。
「熱はないみたいだね。寝起きは脱水症状になりやすいから、水飲んで、水」
 ほら、とたおやかな手がペットボトルを差し出した。素直にそれを受け取る。たった500mlのそれはずしりと重く感じた。
 目の前にいる千束はたきなが知っている彼女のままだ。これからもずっと一緒にいられると錯覚していた頃の彼女の姿と同じだった。彼女は以前より自分の運命を受け入れていた。変わったのは自分の認識だけだ。
 日常のなんでもないことがかけがえのない幸せのように感じられた。それを認識すると自然と目頭が熱くなった。
 目の前にあった千早の胸に抱きついた。突拍子のない行動だったが涙を見せるよりましだと判断した。
「おっ! 今日のたきなちゃんは甘えただねえ~! 千束お姉さんになんでも相談してみ」
 ほれほれ、と千束が甘い声でたきなの背中を撫でた。
 温かくて柔らかくて鼓動のない胸。いくら強く額を押し当てても一切音は聞こえない。ずっとこうなら機械が止まっても彼女は生き続けるのではないかと勘違いしそうになった。
「あしたからいつものわたしに戻るので、今はこうさせてください」
「……うん」
 全てを受け入れるような穏やかな声が降ってきた。まるで拗ねた子供とそれを宥める母親のようだと思ったが、恥ずかしいとは思わなかった。
 たきなが千束を抱きしめると彼女も答えるように腕の力を込めた。
(いつか一日デート、しましょう)
 今自分にできることに全力を尽くしたい。そう考えて思い浮かんだ案はとても幼稚すぎてとても口にすることはできなかったが。

初稿
2022年9月15日
改稿
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