同棲

 蛇口ハンドルを捻ってシャワーを止めた。濡れて嵩が減った髪の毛を軽く絞ってから浴室を後にすると、台所やトイレや玄関と繋がった廊下に出た。学生用の1Kのアパートによくある間取りだった。自分が借りている部屋はこれと左右対称の造りだ。何故なら同じ寮に住んでいるから。
 脱衣所がないのでいつも廊下で服を脱ぎ着していた。夏は暑く、冬は寒く、玄関ドアの向こうで人の気配がするこの環境にも慣れた。
 ただの廊下にはバスマットや脱衣かごの類はない。床に直に置いたバスタオルを手に取ると、自分の家のものではない匂いが鼻腔をくすぐった。
 ピーチとラズベリー、ローズが華やかに重なった柔軟剤の香り。全く生駒のイメージには合わないが、実家からの仕送りをそのまま使っているのだろうか。それとも本人が選んだのだろうか。
 そんなことを考えながら柔らかなバスタオルで身体の水分を拭き取る。他人の家のシャンプーや石鹸で自分の匂いが上書きされると、生駒の存在をより近くに感じた気がした。
 さて次は、と衣服を拾い上げようと腰を屈めると、濡れたままの床に足を取られた。
「おわっ!」
 不意打ちの出来事に、怒声のような悲鳴が出た。よろめきながらもシンクを掴み事なきを得たが、それなりの騒音を発してしまった。隣の住人を驚かせてしまったかもしれないと心配する程度には。
 たった一瞬の出来事だったのに、全身がかっと熱くなった。気を落ち着かせるために大きく深呼吸した。今度こそは床にしっかり両足をつける。同じ過ちをしないよう、濡れた箇所をバスタオルで拭き取った。
「どなんしたん?」
 部屋と廊下を区切る扉を開けて生駒が顔を出した。いつもの無表情のまま、しかし水上を気遣う声だった。
「あー……すんません。ちょっと転びかけて」
「何か躓くようなもんでもあったか?」
「いや、単に濡れたとこ踏んづけただけですわ」
 全裸で台所に突っ立っている水上の無事を認めた生駒は、うんうんと頷いていた。互いの身体を見慣れているから別に恥ずかしくはないのだが、何もないところで転倒しかけたというのはあまり他人には知られたくない事実だった。
「バスマット買ったほうがええんかなあ」
「あったら便利すけど、置く場所ないっすね。浴室の中で身体拭いて、出るときにバスタオルをマット代わりにするんが一番便利でしょ」
 水上は床に転がったままの下着を身につける。生駒はそんな水上の動作をじっと眺めていた。
「なあ、この部屋って狭ない? おまえが立っとるだけでも圧迫感が結構あんねんけど」
「まあ一人暮らし用やから窮屈かもしれんなぁ」
 廊下の広さはたった三畳ほど。そこに体格のいい男二人が並ぶ狭苦しさは水上も感じていた。ただ、一時的に会うだけならそう不便しないというだけで。
 生駒が冷蔵庫からペットボトルを取り出した。秋になってもまだまだ気温が高いので、外側はすぐに結露してしまった。
 目の前にペットボトルを差し出されたので、礼を言って受け取った。ぐい飲みすると身体から蒸発した水分が戻ったようだった。
「ちゅうわけで、俺、高校卒業したらアパート借りようと思っとるねん」
「初耳ですわ。寮のほうが安上がりなのに何でですか」
「三門って京都や大阪より断然家賃安いやん? ここやったら俺でも広めの1LDK借りれるなあ思うてな。ちゃんと独立洗面台や脱衣所もあるようなとこな」
「へえ」
 思いもよらない生駒の言葉を受けた水上の相槌は小さかった。家賃は無料に近く、ボーダーへも高校へも通いやすい恵まれた立地のどこに生駒は不満を持ったのか。
「二人でおってもゆったりした部屋がええ。おまえも一緒に住まん?」
「気持ちは嬉しいすけど、同隊でもルームシェアって目立つでしょ」
「ほな俺が広い部屋借りて待っとるわ。いつでもおまえが来れるようにな」
 そう断言する生駒の声に一切の迷いはない。判断が早い彼が言うのだからそうなのだろう。
 誘いは断ったが、嬉しくはあった。生駒の暮らしに水上の居場所を用意してくれるなんてなんと贅沢なことか。生駒の将来に自分が存在することを想像して水上は口元を緩めた。
「……ありがとうございます」
 水上から出た声は自分のものとは思えないほど優しいものだった。

初稿
2022年9月18日
改稿
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