7th day 00:00「通過点」

 ドアの向こうで人の気配がした。
 今から己の身に起こる事柄を想像しながら脩はベッドに腰を下ろした。なるべく冷淡な声を出せるよう、呼吸を整えるのに要した時間は二、三秒ほど。
 ノックの音がするのと、ドアが開いたのがほぼ同時だった。
「やあやあ脩君! まだ起きてるかー!?」
 陽気な声を張り上げ、勢いよく部屋に飛び込んできたのは幼馴染みだった。レジ袋を両手で抱えながらこちらに向かってくる。身体は大人なのに仕草は子供のままでついつい昔を思い出してしまったのだが、そんなことはおくびにも出さない。
「返事聞く前に入ってくるなバカ。オナニーの最中だったらどうすんだ」
 準備していたおかげが、勢いよく出た声は真夜中の空気を容赦なく切り捨てた。
「さすがのお前もヨソんちでやる勇気はないっしょー」
 素っ気なくあしらわれても大地は特に気にしていないようだった。袋をテーブルに置く彼を見つめながら、脩は表情には出さずに安堵した。
「これ差し入れね」
 袋の中からスナック菓子がいくつか覗いているが、パッケージを見る限り大地が好むような類ではない。どこから調達したのかまでは分からないが、おそらく譲の置き土産だろう。何かと理由をつけて大地に絡んでいた譲は、部屋にも何度か訪れているようだった。
「どうせジョーさんのだろ」
「ご名答。実はこんなのもあったりして」
 袋の底に埋もれていた飲料水を取り出した大地は、わざわざテーブルの真ん中に並べてみせた。栄養ドリンクとコーヒーだった、ただし下手物の。これらは誰にも消費されることなく飲料水としての寿命を迎えそうだ。
「いらん」
「そんなこと言わずに、気が向いたら飲んでみてよ。ミソビタンDと青汁コーヒー」
 こちらを大袈裟な振り返った大地は、今度はベッドへと近づいてきた。
「何かこうしてみると、お泊まり会っぽいよなー」
「まあな」
「外はあんなになってるのに、部屋ん中にいると実感湧かないっつーか」
 二人とも市販のジャージを着ていた。着の身着のままで災害に見舞われたうえとても服を新調できる状況ではなかったので、ジプスに申し出たところ、すぐに衣服や下着などが支給された。維緒や譲も夜間は似たような服装で過ごしている。食糧や生活用品の備蓄があるのだから衣服もあるだろうとは予想していたものの、いざ渡されてみると何だか違和感がある。昼間は破壊し尽くされた世界で命懸けで戦い、夜は以前のように平穏な生活を送る。世界が壊れてなお衣食住が保障されているというのはこの上ない僥倖なのだが、穏やかな日々など二度と戻ってこないことが確定した状況ゆえに心境は複雑である。
「ほい失礼」
 大地が脩の隣に腰をかけると、折り畳み式の簡易ベッドが色気のない音を立てて軋んだ。
 二人の間は座席一つ分ほど離れている。手を伸ばせば容易に届くが、このままでは人肌の気配は伝わらない、何とももどかしい距離だ。
 大地は何を考えているのか俯いていた。
 どうやら風呂から上がってあまり時間が経っていないらしく、頬はうっすらと上気していた。濡れたままろくに手入れしていない髪の毛から流れた水は、首筋を伝って襟に染みを作っていた。前々から収まりの悪かった髪の毛は、おそらく明日はもっと酷いことになっているだろう。
 栗色の瞳がこちらに向いていないのを確認して、脩は彼の横顔から視線を外した。
 どちらかが口を閉じてしまえば、狭い部屋にはすぐに沈黙が満ちる。しかし、この無言は焦燥感や不快感を煽る類のものではなく、妙に心を落ち着けるものだった。多分、幼少の時分を思い出す状況だからだろう。大地が脩の元を訪れるとき、すぐに泣きついてくることもあれば、時間を置いて冷静に話し始めることもあった。どうやら今回は弱音を吐きに来たようではないから、脩も悠長に構えていられるのである。
 耳に入るのは時計の針が動く音だけだった。
 そのリズムに合わせて天井の壁紙の区切りを数えはじめたとき、やっと大地が口を開いた。
「なあ」
 穏やかだがどこか固い、そんな声だった。
 大地の緊張が修の肌にも伝わる。
「改めて言うと恥ずかしいけどさ、えと、今日はありがとう。お前が来てくれて、マジ嬉しかった」
 言葉の一つ一つを噛みしめるようにゆっくりと述べた。つい先ほどまであった笑顔は、いつの間にか真剣な面持ちに変化していた。緩い曲線を描く頬に浮かぶ感情は、喜びや感謝が六割、戸惑い三割、その他一割といったところか。
「ヤマトにしてもロナウドにしても、はっきり目的があってそのために動いてたじゃん。俺は、自分の身の振り方を消去法で考えてたんだよね。二人とも極端だから嫌だって。これって単に駄々捏ねてるだけで意志じゃなくね? 今も手探り状態でこれっていう答えがない。だから……」
 淀みなく綴られていた言葉があっさり途切れた。語尾は消えてしまったが、一瞬の無言は彼の内心を何より主張している。
「俺が大地から離れていくとか思った?」
 大地は緩慢に首を横に振る。
「いや、昔のお前なら両方止めただろ」
 返答は極めて簡潔だった。しかし断言しきれない迷いが短い言葉の端から滲んでいたのを、脩は敏感に察した。
「けど今は微妙。ぶっちゃけ、ヤマトにつくかもってほんのちょっとだけ疑った。お前の考えは大体分かるつもりだったけど、一般人のくせに超強くてリーダーシップも発揮しちゃって、俺の手の届かないヒーローになっちゃったし? スーパーマンの考えなんてミジンコには分かんないよ、なんていじけたりした」
 勝手に雲の上の人みたいに扱うなという反論が喉から出かかったがぐっと堪えた。先に大地の胸の内を全て吐かせる方がいいと判断したからだ。
「仲間同士で争うのがスゲー嫌だった。お前が敵になるとか考えただけで頭おかしくなりそうだった。でも、ちゃんとしたビジョンがない。そこ考え出したらもうダメ、どんどん考えが悪い方にいく」
 自分を卑下する言葉ばかりが並ぶがそれほど嫌な印象を受けないのは、話し方のせいだろうか。端から見れば無責任な愚痴、しかし事情を知っている修には違って見えた。
「でも結果的に峰津院やロナウドと張ってただろ、お前。仲間集めてさ」
「なんだよなあ。リーダーとか、小学生のときジャンケンで負けて班長になったとき以来だっての。肩凝ったわー」
 脩の予想以上に大地は動いた。苦手意識を持っている啓太と対話し、仲間に呼びかけ、東京勢のまとめ役を買い、最終的には大和やロナウドに名乗りを上げたほどだ。
「お前、頭悪いくせに考えすぎ。俺はもっとシンプルだった」
「上から目線デスネー。慣れてるけど。じゃ、どんなんよ?」
「今まで生きてこれたのは峰津院のおかげだし、俺はあいつのことが好きだよ。もし同級生だったら『一緒に遊ぶほどじゃないけど学校では割とよく話すクラスメイト』くらいにはなってたかも」
「び、微妙すぎ」
「でもほんと、峰津院もロナウドも極端だけど悪い奴じゃないと思ってる。でも、世界がこんなになったどさくさに紛れて自分の願望を叶えようとするあたり小者臭い。人間自身の問題をカミサマに頼んで解決とかないわ。しかも洗脳とかさ。さらに頭下げる相手は元凶のポラリスだろ? 論外だ、論外。ここは普通」
 ポラリスに破壊をやめさせるか、言うこと聞かないならぶっ倒すだろ。
 そう言いかけて、声を飲み込んだ。首許に他者の視線を感じたからだ。
 大地はじっと脩を凝視していた。ここで脩が何か言えば、彼はその言葉に影響されるだろう。せっかく彼が盟主になったのだから、自主性を見守りたいと思う。
「……ここは普通、みんなと話し合って解決法を探るべきだろ」
「嘘つけ、別のこと考えてたっしょ。つか答えもう出してるだろ」
 大地が半眼で脩を睨めつける。生来人懐っこい顔立ちをしているせいか、全く怖くない。
「俺の考えは誰でも思いつくことだからわざわざ聞く必要ない。それに試行錯誤してゴールってのがフツーの人達っぽくていいだろ? な、リーダー」
 やや強張っていた大地の顔が綻ぶ。彼のこういう表情が昔から好きだった。
「ほんとはお前がやった方がいいと思うんだけどさ、言い出しっぺの法則でもうちょい頑張るわ」
 後ろ手に体重をかけ、天井を見上げながら大地は言う。決意表明にしては随分軽い声だった。
 電灯の人工的な光を受けた肌は、不健康にくすんで見える。湿ったままの髪の毛は鬱陶しげに額に張りついていた。ベッドからはみ出した足をぶらぶらと遊ばせていて行儀が悪い。
 見た目は弱腰で流されやすい以前の幼馴染みのまま。でも、今はそんな彼の姿を潔いと思った。
 脩が大地を眺めていると、視線に気づいたらしい彼がこちらを見た。
 にやりと口許を歪める。悪巧みを思いついたときの面貌だ。
 大地が修に向かって身を乗り出した。顔に見合わない逞しい指が脩の胸を指す。
 相手の息が届くほどの至近距離で視軸が交わる。
 瞳に浮かぶ強い光が脩を捉えた。
「見直した?」
「惚れ直した」
 己の心境を真顔で吐露してやると、大地はすぐに項垂れてしまった。
 微弱な動揺を残して、部屋は再び静寂に包まれた。
 伏せられた顔から感情は読み取れない。しかし赤く染まった耳朶や、指先が真っ白になるくらい強く握りしめられた拳から簡単に予想できた。多分、冷たく突き放されると想像していたところを真面目に返されて居たたまれなくなったのだろう。
 この上なく無様だった。自分に素直だとか嘘がつけない性質が美徳になるのも時と場合によるのだ。
「……ばか大地」

 主観的には長い時間が経過して、大地は目許を押さえながら顔を上げた。どうやらまだ落ち着かないらしい。
「もう寝るわ」
 沈黙を破る一言は素っ気ない。
 大地は老犬のような動作で立ち上がり、のろのろと出口へと向かう。動作だけ見ると機嫌を損ねているようだった。しかし、彼の内心を知っている脩は心穏やかに彼の姿を眺めていた。
 ドアの前に立って大地の動きが止まった。
「今まで迷惑かけた分、お前の期待を裏切らない俺になりたい。……なるから」
 若干上擦った声が辺りに響く。この程度のことを直面して言えないのが大地の弱さなのであるが、昨日と見違えるほどなので大目に見ることにした。
「俺もお前が一緒にいてよかったと思う。ありがとう、大地」
 互いの顔が見えないまま、脩も心の中を打ち明けた。本当は向かい合って言いたいのだが、大地が逃げた罰とする。それに、こうして話す機会は今後何回も何十回もあるはずだから、そのときでいいだろう。
 大地は右手を軽く上げて小さく振った。とうとう一度もこちらを顧みることはなかった。
 ばたん、とドアが閉まる無愛想な音。
 三度部屋に沈黙が訪れた。


 誰もいなくなった部屋の中、脩はしばしの間固く閉ざされたドアを眺めていたが、乱れたシーツの上に寝転がった。背中に感じる温もりは二人分、しかし残念ながら今は独りだった。
 時計を見ると、日付が変わって少し経ったくらいだった。脩は一つ大きな溜め息をついた。
 明日の行く手について考えてみる。
(そういや、ポラリスって峰津院ですら倒すのを諦めてるような化け物なんだっけか)
 現時点で勝算が一番高いのは大阪勢だと脩は見ていた。グループが強いというより大和一人の力が大きい。
 彼は聡明だから、己にできることとできないことを的確に把握しているのだろう。だから不相応なことは望まず、ポラリスに恭順してその力を用いようとしている。
 しかし脩は望んでしまう。無知ゆえに、今まで勝ち続けてきたゆえに。我ながら無謀なことを考えていると思うが、それほど悲観的にはならなかった。それは多分、一人ではないからだろう。
 東京勢の面々を思い浮かべる。全員が十代、しかも戦闘経験が浅い民間人協力者だけで構成されたグループだった。大和率いる大阪勢はおろか、名古屋勢にも見劣りするような。
 そっと瞼を閉じる。脳裏に蘇る少年の姿に、脩は苦笑した。何故なら、真っ先に浮かんできたのは、覚悟を決めたときの表情ではなく、己の無力さに悩む陰鬱な表情でもなく、へらへらした笑顔を浮かべる以前の彼だったからだ。
 しかし、彼は今己の責任を全うしようとしていた。
 それに、自分の意志を表示するようになった維緒もいる。戦いで知り合った仲間達もいる、それだけで十分だ。有象無象が試行錯誤しながら終点を迎えるシチュエーションも自分達によく似合う。
 何ができるか分からないけど、何もできないかもしれないけど、最善を尽くしたいと思う。
 例え反発や意地から始まったものでも最後まで貫くことができれば真実になるだろう、などと脳天気な言い訳をしながら。

初稿
2012年2月1日 01:56 - pixiv(現在非公開)
改稿
2022年7月10日