七月一四日

 タイピングする指を止めると部屋は一瞬で無音になった。
 ディスプレイを凝視する。画面をスクロールして、書き上げた文章を最初から最後まで読み返す。
 画面の下部に表示される制限時間は余裕があった。他に書き足すことはないか思考を巡らせた瞬間に、これ以上思いつくことはないという結論が出た。
 答案を無事送信したのを確認してオンライン試験用のアプリケーションソフトウェアを終了させる。暗いデスクトップに映る自分の影を見て全てが終わったのだと実感した。
 無意識に大きな溜め息が漏れた。そんなに緊張しているつもりはなかったが、慣れないことをするとやはり気疲れする。
 試験問題を見たクラスメイトが上げる嘆声、筆記具が走る音、教員が教室内を巡回する足音。自分にとっての試験というのは小さな雑音の中で行われるものだった。それが王子にとっての学生生活だった。
 それが大学生になってから一変した。なるほど、三門市立大学はボーダーと提携しているだけあって授業も期末試験もオンラインに対応しており、実地に出向かなくても用事は済む。しかし、家の中で全てが完結するというのは不思議な感覚があった。
 以前橘高にそう告げると彼女は小首を傾げた。彼女は大学の生活にすぐ馴染んだらしい。むしろ落ち着くと言っていた。「ボーダーでも一人でパソコンに向かってることが多いからかもね」という言葉で少し腑に落ちた。長い付き合いのある友人であっても改めて知ることはある。
 机の上に広げていた参考書やノートを棚に戻して、スマートフォンの電源を入れると一件のメッセージが入っていた。
『先に店に入ってる』
 彼らしいごく簡潔な一言に頬が緩んだ。朝からずっと一人で試験に奮闘していたから、ようやく人の気配を感じて嬉しくなったというのもある。
『日替わりの注文よろしく』
 こちらも短く用件だけを伝えて、家を出る準備をする。玄関のドアを開けた途端に肌を貫くような陽光が降り注いだ。
 見上げれば視界いっぱいに混じりけのない青色が広がっていた。まるで一色のペンキをまき散らしたかのように濃くて鮮やかな色。涼しさすら感じる爽やかな彩りに反して照り返しは激しく、足元からじわじわと熱が伝わってきた。
 人が通れるだけの狭い通路を抜けて二車線道路に出るとすぐ目的地が見えた。警戒区域近く特有の侘しい雰囲気を吹き飛ばすような、白を基調としたカフェレストラン。広くはない平屋建て、しかし道路に面した部分は一面がガラス張りになっていて解放感があった。道路と建物の間には少し距離があり、樹木も植えられているのでプライバシーも両立していた。
 緑が植えられた庭の小道を踏みしめて入り口に辿り着くとブラックボードが立てかけられていた。今日の日替わりランチはグリルチキンと白身魚のフライだ。握り拳に力が入る。もっとも、メニューを知る前に注文は済んでいるのだが。
 店員に先客がいると伝えて中に入ると、昼時なだけあって混雑していた。冷房をつけているが人々の活気から熱を感じるほどだ。洒落た外観に相応しく店内にいるのはほとんどが女性だからこそ、その人はすぐ見つかった。窓際で静かに佇む長身の男。
 規則正しく並ぶテーブルや観葉植物を通り過ぎて目的の席に辿り着く。
「弓場さん、おまたせ」
「やっと席が空いて俺も今座ったとこだ」
 弓場の向いの席に腰を下ろす。換装体と生身では外見にいくらかのギャップがある彼は黙っていると知的な文学青年に見える。実際本をよく読むし、落ち着きがあり、賢明なところも合っているのだが。
「にしても、この時期に誘ってくれるなんて珍しいね。高校生のときはテスト期間中にデートすらしてくれなかったのに」
「気分転換だよ。ずっと家にこもってたら気が塞いじまうだろうが」
「はは、弓場さんも試験中は気弱になったりするんだね」
「学生の本分は学業だから仕方ねェー」
 広い肩を落として茶を啜る彼に威厳は感じられない。必修の教養科目を多く履修している一年生の王子と、専門的な講義が増えるであろう二年生の弓場では期末試験の捉え方が違うのかもしれない。ランク戦の順位で勝ってもプライベートではいつも弓場の背中を追っていたので、共に並ぶことができないのは歯痒く思う。
 ボーダー隊員はトリガー研究室に所属していれば単位の心配はないのに、手を抜かないのが彼らしい。もっとも、それは王子も同じだ。学びたいことがあるからこそ進学したのだ。
 高校は違ったが今は彼と同じ大学に通っている。つまり、一年前の弓場が辿った道を王子はこうしてなぞっている。そこで分かったのは、ボーダーと学業の両立の大変さだ。
 高校までは守るべき規則が多くそれが檻のように感じられたが、大学では逆にいきなり野に放たれた気分だった。弓場隊から独立して自分の部隊を持ったことは王子にとって誇りだが、その際彼がどんな苦労を背負ったのか想像できる立場になった。快く送り出してくれた彼には感謝の念しかない。
「お待たせしました。こちらサラダになります」
 店員が二人の前に木製の皿を並べた。緑の中にあって一番目を引いたのは真っ赤なトマト、そしてすぐ名前が思いつくレタスと水菜。あとは知らない野菜が何種類か盛りつけられていた。
 手を合わせてフォークを持つ。
「まぁ、でも試験で悩めるのは平和な証拠だよね」
「だな」
 雨が降ろうが槍が降ろうが防衛任務を全うする気持ちは入隊以後ずっと変わりない。しかしここ数か月は気が休まることがなかった。弓場隊打倒を掲げたB級ランク戦二月期、大学入試、遠征選抜試験、そして主力部隊が近界遠征に行っている間の防衛任務。
 王子は遠征を希望していなかったし、遠征のメンバーに選ばれるとも思っていなかったので三門を守る覚悟を決めていた。攫われた仲間を直接取り戻すことはできなくても、自分が働くことで、主力部隊が憂うことなく遠征に行けるのなら光栄なことだ。
 何もかも解決したわけではないし失ったものもあれど、大規模侵攻以前に攫われた人々の一部も玄界に戻ってくることができ、近界のいくつかの国と和平協定を結べたのなら、ベストに近いベターな結果だと思っている。
 今まで数えきれないほど彼と食事を共にしたが、こんなに晴れやかな気分で向きあうことができたのは初めてだった。大規模侵攻後、常に頭の片隅に不安や焦燥があったことを今になって知った。
 体格に見合わないフォークで器用にサラダを食べる弓場を見て王子は目を細めた。おそらく、これが世間一般にいう幸せなのだと思う。目下の問題は期末試験だけという平和な環境。命を懸けることもなくただ自分のことだけを心配できるというのはなんと恵まれたことか。
 ――ねぇ、この後少しでいいから弓場さんの家に行っていい?
 以前なら小突かれる問いかけも今の弓場なら応えてくれるという確信があった。彼も今はこうして平和を享受しているのがひしひしと伝わってくるがゆえに。
 どのタイミングで声をかけるべきか考えながら、王子もサラダを口にした。

初稿
2022年7月14日
改稿
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