驟雨

 何の店だったのか分からない軒に逃げ込んだがすでに手遅れだった。
 水に浸したかのように濡れた制服が身体に張りつく。下にもう一枚着ているのだからワイシャツを脱いで絞ってやりたいくらいだが、いくら警戒区域とはいえそんな不格好なことはできない。
 盆を覆すような雨だった。アスファルトに弾かれたしぶきがごく短い時間浮き上がり、まるで地面の上にもう一枚白い床があるようだった。雨が降る前の独特の匂いは消えて、自分の体臭が混じった生温かい湿気が鼻を突いた。
 隣にちらりと目をやると外岡と目が合った。何やらこちらに話しかけているようだが、雨音にかき消されて聞こえない。
 ざあざあという轟音が一帯を包んでいた。まるで世界に二人きりのようだ。
「天気予報! 今日、降るって言ってなかったのに」
 手でメガホンを作った外岡の大袈裟な仕草に笑みがこぼれた。いつもはふんわりとしたアップバングが今はすっかりしぼんでいるところも。
 髪を上げた彼とは毎日のように会っていた。逆に下ろしたところも以前はよく見ていた。防衛任務やランク戦で雨に打たれることはあったが、トリオン体は形状を記憶しているから髪型が乱れることはない。彼のこんな姿を目にするのは初めてだと気づいた。雨に打たれたのは不幸だが悪い気はしない。
 水と一緒に流れてきたワックスが目に染みる。水が滴るハンカチで顔を拭ったが、全く役割を果たさなかった。
「おれは鞄の中に濡れて困るもんはないし、ボーダーに帰ったら服もあるからいいけど、神田さんは大変スね」
「おれも同じだよ。このまま走るか」
「受験生が置き勉してるんスか?」
 外岡が神田のスクールバッグに視線を向けた。この中に入っているのは空の弁当箱や体操服だった。持って帰るのは復習や課題に必要なものだけにしている。
「今日使う分は家にあるからいいんだよ」
「へぇ、頭いい人はほんとに毎日勉強してるんだ」
「おまえも宿題くらいはやれよ」
「っス」
 はは、と愛想笑いする外岡が肩を揺らした拍子に、乱れたワイシャツの隙間から白い首が見えた。その付け根にある赤黒い痕も。
 視界にちかちかと火花が散った気がした。それが何なのか理解する前に胸が激しく動悸を打った。
 会話が途切れたのを気にしたのか外岡がじっと神田を見上げた。ほっそりとした輪郭を水が伝って顎先から滴り落ちる。雨で濡れた首がてかっているのが何とも艶めかしい。
「トノ。痕、見えてる」
 自分が思ったより低い声が出たせいで、へらへらしていた外岡までつられて表情を消してしまった。内心をそのまま出力するような真似はしていないつもりだったが、失敗したかもしれない。
 聞こえなかったのか、意味が伝わらなかったのか、外岡が小首を傾げた。
「え、なにが?」
「キスマーク。お盛んなのはいいけどな、帯島の教育に悪い」
 神田が自分の首を指差すと、外岡も自分の首に手をやった。心当たりがないのか胸元あたりを何度もさすってから、突然何かを思い出したようにうんうんと頷いた。
「あー……、すんません。見苦しいもんを」
 水を吸ってふにゃふにゃになった襟元を整えたのを見てまた怒りが込み上げてきたが、力んでいた拳を緩める。
 二人はただのチームメイトなのだから、外岡がプライベートで何をしようと神田には関係のないことなのだ。神田が気分を害する一方的な理由になりえても外岡に当たり散らす権利がないことは分かっている。
「別におれに謝る必要はないけどな」
 何に対して憤っているのか自分にすら分からなかった。外岡に恋人がいることなのか、付き合っている人がいることを全く口にしなかったことか、他の何かか。
 神田が自分のことを語るような感覚で外岡にも話してほしいと願っても、彼が自身について口にすることは少ない。
 何でも話すことが親愛の証だなんて思わないが、もう少し彼のことを知りたいというのも事実だ。神田が外岡に開示した程度の情報を彼からも聞きたい。
 そこまで考えてこんな幼稚なことはとても彼に伝えられないと思った。つまらない独占欲は自分自身が嫌うものだ。
 針金のように光る雨は未だ途切れる気配がない。夏の昼間とは思えない薄暗さから解放されるのはいつになるのだろう。
 普段の自分を意識してゆっくり息を吸う。肩からずり下がったバッグを定位置に戻す。
「まだ止みそうにないけど、もう行くか」
「濡れるけどいいんスか?」
「とっくに手遅れだから気にしないよ。ロッカーに着替えを置いてるから」
「さすが。準備いい」
「服、洗って乾燥させる間おまえの部屋行っていいか?」
「どうぞ。あ、せっかくなら宿題見てくださいよ」
「おれに分かるならいいよ」
「あんたに解けないなら誰も解けませんよ」
 神田の内心を知ってか知らずか、けらけらと笑う外岡の表情にもう陰りはない。いつもの気安い先輩と後輩の仲に戻った。
 話す機会などたくさんあるのだから焦る必要など何もない。そう自分に言い聞かせながら、軒下を後にした。

初稿
2022年7月18日
改稿
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