無題

 紙に文字を書きつける音が部屋に響く。
 プリントにシャープペンシルを走らせる水上の手は一切の淀みがなく、まるで何か写し取っているようだった。たった数秒指が止まるのは問題文を読んでいるときだ。そしてすぐに解答を導く。
 迷いのない動作を隠岐は感動をもって眺めていた。村上が強化睡眠記憶の副作用を持つように、水上は一度見聞きしただけで覚える瞬間記憶能力があると言われたら信じるだろう。隠岐はそんなに早く手を動かせないからなおさらそう思う。現に先ほど水上に解き方を教わったにも関わらず課題は止っている。
 ずっと下を見ていた水上が視線を隠岐に向けた。琥珀色の瞳に温かみのないが、別に気分を害しているわけではないと分かっていた。
「おまえ、俺が教えたんもう忘れたんか」
「いや、覚えてます。今から書くとこです。水上先輩、相変わらず手ぇ動かすん早いなあって思って」
「今日の復習やからな」
「それが難しい人もおるんです。いっぺんやったくらいやとすぐ忘れますよ」
「なら覚えるまでやれ。俺らは受験勉強に時間取れんから、今からちゃんとやっとかんと受験のとき困るぞ」
 そう言って水上はA3サイズのプリントを半分に折って鞄に入れた。もう課題は終わったらしい。
「宿題終わったら言うて」
 タブレットを持った水上は立ち上がってベッドに向かった。腰を下ろして、ヘッドボードに置いてあったイヤホンをつけている。ランク戦の記録と将棋の配信のどちらを見ているのかは分からない。
 ローテーブルに取り残された隠岐は、麦茶が入ったコップを呷った。ほんのりした甘みのある香ばしさが口内に広がる。水上の家の習慣なのか、夏は麦茶、冬は温かい緑茶が出る。
 ついさっきまでシャープペンシルの音が聞こえていたのに、今は沈黙が横たわっていた。隣の部屋の住人は外出しているのか夜になっても人の気配がない。沿道を走る車の音が遠くに聞こえるくらいだ。
 隠岐は三門に引っ越す際寮に入ったが、水上はボーダーと提携しているアパートを選んだ。寮は常に人の気配があって心強いが、プライバシーがなく規則が多いところが難だった。だからこそたまに水上の部屋を訪れると心が安らぐ。
 沈黙が苦にならない水上本人も貴重な存在だった。生まれた場所は同じでも育ちが違う。性格や趣味に共通点もない二人はボーダーがなければ出会うことがなかった。色々な縁が重なって部隊を組み、プライベートでも顔を合わせるようになり、互いにちょうどいい距離感を掴むことができた。水上が隠岐に関心が薄いおかげで。
 隠岐は他人から寄せられる好意に敏感な性質だった。その表情に、視線に、仕草に、乗る熱を一方的に注がれる不快感は言い表しようがない。同じ量の感情をこちらにも寄こしてほしいという下心もなかなか耐えがたい。いなす技術は身につけても考えに変わりはない。
 一方隠岐に対する水上の言動は嫌味も媚びもなかった。今も客人である隠岐を特別扱いしていない。隠岐がいようが難しそうな本を読み、将棋の見逃し配信を追いかけ、芝居めいた落語を聞く。まるで自分が透明人間になって彼の私生活を覗き見ているような錯覚に陥る。あるいはその優れた頭脳に隠岐のことなど全く記憶していないかのようだ。
 気分が高揚しつつあるのを自覚した。石のようになっていた右手を動かして、思いついた解答を記した。皺になるのも構わずプリントを片付けて、隠岐は彼の元に向かった。
「終わりました」
「おん、……っと」
 水上がイヤホンを外すのを待たずにベッドに押し倒した。意外そうに目を見開いた水上の顔面に隠岐の影が落ちる。
「盛りのついた猫みたいに」
「水上先輩が枯れとるだけですよ」
 ボリュームのある髪の毛がシーツに散らばる。水上は動じることなくタブレットやイヤホンをヘッドボードに戻した。
 神経質そうな水上の指先が隠岐の輪郭をなぞった。両頬を掌で包まれる。誘われていると判断して彼に体重をかける。
 薄く乾いた唇に自分のそれを重ねる。よれたシャツの裾に手を入れて薄い腹に触れた。骨が目立つ脇腹を撫でると、悩ましげな溜め息が聞こえた。
 夜の色を強めた瞳は濡れている。生白い首筋はおもむろに色づいて、吐く息は熱を帯びている。真実を告げない唇と比べて身体の反応は随分と素直だった。掌に伝わる感触は実感できるのに、彼の頭の中だけはどうも想像がつかない。
 水上の手がヘッドボードを這い、照明のリモコンを掴んだ。彼は行為に及ぶとき灯りを落とすことが多い。
 ――おれの身体そんなに見たあないですか。
 言いかけて言葉を飲み込む。水上からリモコンを奪い取って彼の手の届かないところに置く。
「たまには点けたまましましょうよ。なんでいつも消すんですか?」
「顔面の格差を実感したあないというか、申し訳ないというか」
「おれは先輩を見たいです」
「物好きやなあ」
 元々大きくない目が細められる。笑っているようにも呆れているようにも受け取れる微妙な表情をしていた。
「おまえやったら俺よりもっとふさわしい奴おると思うけど」
「先輩がええんです」
 縋りつくような情けない声音になってしまったのは二人とも無視した。
「妙な奴」
 ぽつりと呟いた言葉は淡々としていて感情が乗っていない。
 隠岐が水上のことを探ろうとしているのに、水上はまた違うことを考えている。いつも複数のことを並列して考えるような人だから、単一の物事で彼の頭を満たすことは不可能であるかのように思えた。そうあってほしいと願う。誰かに熱を上げる水上の姿は見たくない。それが例え自分であっても。
 好かれるのは面倒なので無関心がいい。そう伝えたら水上は分かってくれるだろうか。しかし、理解の範疇を超えた水上が、隠岐の本心をどう受け取るのかなんて想像できないことであるのだが。

初稿
2022年7月21日
改稿
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